
医学部から起業の道へ。
AIで挑む、病理診断の革新

医学部から起業の道へ。
AIで挑む、病理診断の革新
飯塚統さんは、九州大学医学部に在学中に独学でプログラミングを習得し、病理画像診断を支援するソフトウェアを開発。学生の立場で起業を果たした、医学部発のアントレプレナーです。医学の道を究めるはずだった飯塚さんが、なぜ起業という挑戦を選んだのか。その背景や、現在手がけている事業について、お話を伺いました。
現在は医療AI領域に特化したスタートアップを経営しています。主に取り組んでいるのは、患者さんの細胞や組織をもとにがんを診断する「病理診断」と呼ばれる分野で、ここに向けた人工知能(AI)の開発を行っています。
病理診断とは、医師の中でも「病理医」と呼ばれる専門家が、顕微鏡で細胞を観察し、がんかどうかを診断する領域です。胃がん・大腸がん・肺がん・すい臓がんなど、全身のあらゆる臓器を対象に判断が行われ、実は日本人の死因1位である「がん」の確定診断は、すべて病理医が担っています。
しかし現在、この病理診断の現場には深刻な課題があります。まず、病理医の数が圧倒的に不足しており、日本全国でもわずか2,800人ほど。1億2千万人の国民のがん診断を、この限られた専門医で支えている状況です。しかも都市部への偏在や高齢化も進んでおり、地方では診断が受けられる医療機関すら限られるケースも少なくありません。大多数の医療機関には病理医がおらず、他院や検査センターに病理診断・検査を外注に出し、結果がでるまでに長い待ち時間が生じる……そんな実情があります。
こうした背景を受け、私たちは病理診断の効率化と質の向上を目指し、AIによるがん検出支援システムの開発を進めてきました。さらに、アナログな体制が残る医療現場に対し、診断プロセスのデジタル化やクラウドベースでの遠隔診断支援にも取り組んでいます。
病理診断の現場はいまだにアナログ作業が中心です。医師がガラスのスライドを顕微鏡でのぞき、目視で細胞や組織を観察して診断する──というのが現在も一般的な手法です。ただ、スライドを見ても判断が難しいケースは珍しくなく、その場で確定診断ができないこともしばしばあります。しかし診断が曖昧なまま治療や手術に進むわけにはいきません。だからこそ医師たちは、他の病理医の意見を仰ぎながら慎重に進める必要があります。
ところが、現状のプロセスは非常に非効率です。スライドを緩衝材で包み宅配便で送る、あるいは急ぎの場合は医師自ら車でスライドを運び、他院で対面のディスカッションを行って診断を決定する。そんな状況が、忙しい医療現場で今も日常的に行われています。
こうした状況を変える鍵となるのが、「デジタル化」です。ガラススライドをデータ化することで、モニター上での閲覧が可能になり、疑問点があれば即座に他の医師と画像を共有し、助言を仰ぐことも容易になります。さらに、デジタル化された画像はAIによる解析も可能となり、異常とみられる部位の可視化や、がん細胞の検出支援にもつながっていきます。
このように、AIによる解析に加え、遠隔診断や業務支援を含め、病理の現場を総合的に支える“トータルソリューション”を提供することで、医療現場の負担軽減とがん診断の質の向上を同時に実現していくことが、私たちの目指すところです。
大学入学後、すぐに研究室に所属してさまざまな研究に取り組み始めました。もともと研究者志望だったので、研究の面白さを体感するのは自然な流れでした。なかでも、医学の分野で何か研究できないかと模索する過程で、出てきたデータを解析するにはプログラミングが欠かせないという現実に直面します。
実は以前からプログラミングには興味があって、少し触れたこともあったのですが、大学の研究活動を通して本格的に習得していくなかで、その奥深さにどんどん引き込まれていきました。次第に、独学でアプリやシステムを作るようにもなり、「作ること」そのものにのめり込んでいきました。
一方で、医学部に在籍していたことから、医療現場を見学する機会にも恵まれました。実際に医療機関を回ってみると、驚くほど多くの業務がアナログ中心に行われていて、「この部分はもっと効率化できるのでは」「こういう仕組みがあれば医療現場が変わるのではないか」と、改善のアイデアが次々に湧いてきたんです。
「ならば、自分で作ってみよう」と思ったのが最初の一歩でした。ただ、プロダクトを作るだけでは意味がない。医療機関に長く使ってもらうには、継続的に提供できる仕組み=ビジネスが必要だと気づき、起業という選択肢が現実味を帯びてきました。
そのときに考えていた複数のアイデアのひとつが、現在メドメインで手がけている「病理AI」につながっています。構想を始めたのは2015年ごろ。当時はまだ、AIといえば「犬と猫を見分けられる」といったレベルの話題が中心で、「がん細胞を検出する」などというと、懐疑的に見られることも少なくありませんでした。
そんななか、最初のプロトタイプとして、細胞を認識するAIアルゴリズムを自作し、研究室の教授に見せたところ、「これだけの精度で細胞を判別できるなら、がん細胞の検出も視野に入るのではないか」とアドバイスをいただきました。
当時はまだ誰も病理領域でAIを本格的に活用していなかった時代。いわばAI黎明期において、誰もやっていないことだからこそ、チャレンジしてみようと思えたのかもしれません。そこから、「これをどうビジネスにしていくか」を考え始め、今のメドメインの事業へとつながっていきました。
起業の道を本格的に意識するようになったのは、医学部4年生のとき。現在の事業にもつながる「病理AI」のアイデアを事業化したいと思い、九州大学の助成金に応募したことが最初の転機でした。採択されて得た50万円は、学生にとっては決して小さな額ではなく、大学が自分のアイデアを公認で応援してくれたという事実は、精神的にも大きな後押しになりました。この資金でPCやサーバーを整え、プロトタイプの開発に着手。実際に形にできたことで、プロジェクトに対する手応えが生まれました。
もう一つの決定的な出来事は、福岡市が主催する起業家育成プログラムへの参加です。これは、世界に羽ばたく起業家を育てることを目的に、シリコンバレーでの実地研修を含む本格的なプログラムでした。その一環で現地のピッチコンテストに出場したところ、優勝。賞金として5万ドルを獲得しただけでなく、地元メディアでも大きく取り上げられました。過去にはSnapchatなど、世界的企業も名を連ねたコンテストだったこともあり、投資家からの反応も上々。「投資したい」といった声も複数いただき、起業への確信が強まった瞬間でした。
特にシリコンバレーでの経験は、マインドセットを大きく変えてくれました。現地の起業家やメンターたちに繰り返し言われたのは、「アイデアそのものにはあまり価値はない。大切なのは、実行して試してみることだ」というシンプルで本質的なメッセージです。ピッチコンテストで優勝し、実行に移さないという選択肢は自分のなかでもあり得なかった。そうした環境や機会に恵まれたことが、実際の起業への大きな推進力になりました。
私たちが取り組んでいる病理AIの開発は、技術的にも非常に研究色の強い領域です。もともと私は、大学の研究室で研究者としてキャリアを歩むことを考えていましたが、現在はスタートアップという形でチームを組み、より柔軟かつスピーディーに研究開発を進めています。投資家からの資金調達によって、大規模な開発に挑戦できる点も、スタートアップならではの魅力です。
かつて研究は、大学に所属し、研究費を獲得して進めていくものが主流でした。しかし今では、「スタートアップで研究する」という新たな選択肢があると感じています。社会実装が前提となるような研究であれば、ビジネスとして形にすることで、より大きなスケールで実現できる。実際、メドメインで行っている取り組みはその典型です。
大学にとどまらず、研究を社会につなげていく手段として、スタートアップという器は非常に有効だと実感しています。そしてそれは、私たちに限らず、今後さらに増えていく研究のスタイルでもあると考えています。
起業するまでは、アントレプレナーシップというものにマインドセットや理論が存在することすら知りませんでした。ただ、福岡市のシリコンバレー研修プログラムに参加したことをきっかけに、アクセラレーターや各種プログラムを通じて、起業家として必要な考え方や知識を体系的に学ぶ機会に恵まれました。
また、自分でも積極的に情報を取りに行きました。起業家や投資家が語るYouTube動画を視聴したり、実際に経験談や理論を発信しているコンテンツを参考にしたりするなかで、多くのヒントを得ることができました。特に印象的だったのは、「起業には正解がない」という漠然としたイメージが、実はスタートアップにおいては一定の王道やパターンがあるという気づきでした。
たとえば、資金調達においてはシードラウンドから始まり、シリーズA・Bへと進んでいく過程があり、その都度求められる成果やステップもある程度整理されている。プロダクト開発、チーム構築、スケーリングのプロセスなど、多くの先人たちが歩んできた道筋が、参考になる形で共有されているのです。
こうした「型」があるからこそ、自分の進んでいる道を俯瞰しやすくなりますし、経営に必要なマインドセットや判断基準も明確になります。アントレプレナーシップ教育の価値は、まさにそこにあると感じており、学ぶ場があること、先人たちの知恵に触れられることは、非常に心強い支えとなっています。
人によって考え方はさまざまですが、私は「なぜ日本地図だけを見てビジネスを考えるのだろう?」と常々疑問に思っています。自分の中で何かアイデアが浮かんだとき、それが生きる場所は必ずしも日本国内とは限りません。むしろ海外の方がニーズに合っていて、大きくスケールできる可能性だってあるはずです。
だから私は、最初から地球全体を視野に入れて考えるようにしています。どこの国で勝負するのが最もスケールできるか、自分たちのサービスが一番価値を発揮できるのはどの市場か。場所は九州ですが、九州でナンバーワンになりたいというより、どうすればアメリカ市場を獲れるか、ベトナムやインドに展開できるか、そんな感覚で日々取り組んでいます。
シリコンバレーでは、何もない場所から世界規模のサービスが次々と生まれています。人口が多いわけでもないのに、世界を前提に事業を設計している。日本の1億2千万人に70%のシェアで提供するよりも、世界のわずか2%に届けたほうが、利用者数がはるかに多くなる——そんな話をシリコンバレーで聞いたとき、ハッとさせられました。私はそこに強い刺激と影響を受けました。
ビジネスを考えるとき、日本の枠組みにとらわれず、地球儀を回しながら考える。そんな姿勢が、これからの時代にはより一層大切だと感じています。
医療と聞くと、多くの人が「患者を助けること」に意識を集中させがちです。もちろんそれは医療の本質であり、最も大切な部分です。しかし実際の医療は、それ単体で成り立っているわけではなく、制度や経済、ビジネスの仕組みと密接に結びついています。
たとえば、ある治療法や薬がなぜ選ばれるのか。その背景には、医療技術だけでなく、患者のニーズ、市場の動向、病院経営、保険制度など複雑に絡み合う構造があります。こうした全体像を理解せずにいると、本当に必要な課題が見えにくくなることもあります。
だからこそ、医療従事者こそ「アントレプレナーシップ」的な視点が求められると感じています。目の前の患者さんを助けるだけでなく、医療そのものをより良くするには、社会全体の仕組みに目を向け、課題を見出し、解決へと動く力が必要です。その力こそ、起業家精神であり、医療現場においても重要なものだと思います。
医学の道を志す学生の方々にも、ぜひ恐れずチャレンジしてほしいと思っています。自分の中の熱量を持って一歩踏み出せば、想像以上に応援してくれる人が現れます。そして、その応援が次の、さらに大きな挑戦へと背中を押してくれる。そう実感しています。
チャレンジする人は決して多くありません。でもだからこそ、あなたの挑戦が社会を、日本を、そして世界をより良くするきっかけになるかもしれない。人類の進歩に少しでも貢献するような挑戦をする人が増えてくれることを、心から願っています。
もちろん、チャレンジの手段は起業に限りませんが、「アントレプレナーシップ」は誰にとっても大切な考え方だと思います。なぜなら、多くの人が心の中に何かしらのアイデアを持っているからです。そのアイデアを形にしようとしたとき、プロトタイプの作り方、市場の見極め方、ビジネスモデルの設計、マーケティングや販売戦略、こうした一連の思考や行動は、アントレプレナーシップ教育を通じて体系的に学ぶことができます。
たとえ起業しなくても、企業に勤めるなかで新たな事業に関わる機会はあるでしょう。そのとき、自分の担当が全体のなかでどんな意味を持つのかを理解できるだけで、行動の質もモチベーションも変わってきます。目の前の業務が、社会を動かし、人の役に立つ実感を持てることは、大きな原動力になります。
だからこそ、アントレプレナーシップは「起業家だけのもの」ではなく、これからの時代を生きるすべての人にとって、学ぶ価値のある重要なマインドセットだと思っています。
